南京事件の真実
南京事件は、東京裁判で初出の事件である。
メディアリテラシーの観点から南京事件を検証する。
出典の定かな当時の南京の写真・新聞を使った授業。(1時間扱い)

Webワークに従って、授業を展開している。お問い合わせは、faku1096@gmail.comまで。
南京事件とは
向山洋一氏は、南京事件について次のように述べる。
例えばこういう事件もあります。「南京大虐殺」です。
戦争中ですからたくさんの人が死んだでしょう。
日本人が暴虐、残虐な非道をしたということも曲げられない事実です。
しかし、最初あそこで四〇万人の人が殺された。
あるいは、国連の裁判の中では、二〇万人、一〇万人といろいろ数が出ました。
数が問題でないと言う人がいますが、でも結構それは問題であります。個々の局面の中では。
『新教育課程の授業づくりQA事典』(明治図書)p66
極東国際軍事裁判で裁かれた「南京大虐殺」が、中国そしてアメリカのプロパガンダとして日本の国益を損なっている。
「靖国問題」「教科書問題」などがこれにあたる。
子ども達に「南京大虐殺」とは何か、当時の日本人の気概を持って示す授業を提案する。
指導案
レイプオブ南京の写真
レイプオブ南京という本です。
1937年12月。
中国の南京を占領した日本軍が行ったとされる「南京大虐殺」について書かれています。
次のようなことが書かれています。
『少なくとも、100人の男が、目をえぐり出され、耳と鼻をそがれてから、火炙りにされた。また、別の200人の中国人兵士や市民は、裸で学校の戸や柱に縛り付けられ、 zhuiziと呼ばれる柄のついた特別な針で口やのどや、目など何百箇所も突かれた。 』
詳しく見ていきます。
(「レイプオブ南京」の連行している写真)
何をしているところに見えますか。
説明には、こうあります。
『日本軍は何千人もの女性を駆り立てた。彼女らのほとんどは強姦されるか、従軍慰安婦にさせられた。(台北、軍事委員会政治部)』
しかし、この写真の出どころは、『アサヒグラフ』1937年11月10日号でした。
前の女の子は、笑っています。
説明は次のようです。
『我が兵士に護られて野良仕事より部落にかえる日の丸部隊の女子供の群れ』
最初の説明は、正しい説明といえますか?
「レイプオブ南京」は、アメリカで発売されます。そして10万部以上も売れ、ベストセラーになります。
本を読んだアメリカ人は、日本人のことをどう思ったでしょうか?
次の写真もあります。
(「レイプオブ南京」の赤ちゃんの写真)
写真を見た感想。
同じ場所で撮った写真です。赤ちゃんは一人ではなかったのです。
写真を見た感想。
どうして最初の写真を使ったと思いますか。
これから写真を見るときは、何に気をつければ良いですか?
ノートに一つ書きなさい。
「レイプオブ南京」に使われた写真は、他にも同じように誰が、
どこで撮影したかわからない写真ばかりなのです。
今までに誰が、どこでがはっきりした「南京大虐殺」の写真は一枚も無いのです。
しかし、誰が、どこで写したか(出典)がはっきりした当時の「南京」の写真はあります。
佐藤振寿さんが撮影した1937年12月17日の南京の写真です。
兵隊さんの買い物
皇軍入城に安堵し場外の畑を耕す農民達
皇軍に保護される避難民の群
和やかな床屋さん風景
次のような新聞記事が報道されました。
百人斬り超記録
向井106-105野田両少尉さらに延長戦
野田「おい、俺は百五だが貴様は?」
向井「俺は百六だ!」
両少尉は「アハハハ」
結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは、不問
結局「じゃ、ドロンゲームと致そう。だが改めて百五十人はどうじゃ」
(向井少尉は)「俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろとも唐竹割にしたからじゃ」と飛来する敵弾の中で百六の生き血を吸った孫六を記者に示した。
この記事が証拠となって二人は南京の軍事裁判所に送られます。
しかし、実はこの記事は、創作(ウソ)だったのです。
軍刀修理の専門家は言います。
日本刀で3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、
刀身は折れ曲がり、柄ががたがたになる。
まして、「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、
木刀でマキを割るのと同様に物理的に不可能。
二人を写したカメラマンの佐藤振寿さんは次のよう言います。
よく聞けば、野田は大隊副官だから、
中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、
そんな暇はありません。
向井も歩兵砲の小隊長だから、
戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり
百人斬りなんてできないのは明らかです。
物理的にも、役割としても、できないことは当然でした。
もちろん、無実を主張しますが聞き入れられません。
最後の望みは記事を書いた浅海一男記者が「記事は創作(ウソ)」と認めることでした。
裁判中、家族は、必死に頼みます。
だが浅海記者は、「創作だ」とは決して言わなかったのです。
昭和23年1月28日 南京 右花台で二人は処刑されました。
二人はどのような気持ちで処刑されたでしょうか。ノートに書きなさい。
向井敏明さんの遺書にはこう記されていました。
辞世
我ハ天地神明ニ誓ヒ捕虜住民ヲ殺害セルコト全然ナシ
南京虐殺事件等ノ罪ハ絶タイニ受ケマセン
死ハ天命ト思ヒ日本男士トシテ立派ニ中国ノ土ニナリマス
然レ共魂ハ大八州ニ返リマス
我ガ死ヲ以テ中国抗戦八年ノ苦杯ノ意恨流レ去リ
日華親善東洋平和ノ因トモナレバ捨石トナリ幸デス
中国ノ御奮斗ヲ祈ル
日本ノ敢奮ヲ祈ル
中国萬歳
日本萬歳
死シテ護国ノ鬼ニナリマス
天皇陛下萬歳
向井敏明さんは、
我ガ死ヲ以テ中国抗戦八年ノ苦杯ノ意恨流レ去リ
日華親善東洋平和ノ因トモナレバ捨石トナリ幸デス
日本と中国の親善を願って死んでいったのです。
しかし、二人は、現在でも中国にある南京大屠殺紀念館で南京大虐殺の実行犯とされています。
日本人は、戦争後、このように戦勝国7カ国に裁かれました。
有名なのは、先に勉強した東京裁判A級戦犯7名。
しかし、平行して日本だけでなく中国などの各地で裁判があり、向井さんのように死んでいったのです。
BC級戦争犯罪人としてです。
その数1061人。
7歳と2歳の娘を残して処刑された人の辞世の句です。
国敗れ つみ人となり 死ぬる身は □□□□の抗となるなり
□□□□には何が入るでしょう。
世界平和。
「世界平和」を願って死んだ方々の上に私たちはいるのです。
授業の感想を書きなさい。