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朝倉義景

6年社会科。戦国時代。「戦国時代を代表する人物は誰か」という討論をさせた後、地元福井県の戦国大名朝倉義景をとりあげた。戦国時代の初期には越前の雄と呼ばれていた朝倉氏には「全国統一をするチャンスはなかったのか。」子どもたちに討論をさせる。

向山式歴史学習法で戦国時代を学習した後、地元福井の朝倉義景を取り上げた。

◇一乗谷から出土した大量の銅銭。立派な陶器。館や庭園の跡、それから一乗谷の復元図を見せ、一乗谷が当時は全国有数の城下町であることを知らせた。

朝倉一族は、織田信長が生まれた当時、すでに越前の一乗谷に壮麗な城下町を築いていた。城の周囲に家臣を集め、寺社仏閣を次々と建立し、町人も数多く住まわせた。最盛期には人口が1万を越えたと言われ、越前の小京都とも呼ばれていたのである。 その一乗谷は、義景が信長の連合軍に破れた後、徹底的に破壊されてしまった。しかし、その破壊の仕方があまりにも徹底していたために、その後、一乗谷に住む人は少なく、畑や荒れ地の下に遺跡が温存されることになったのである。 現在は、その発掘作業が進み、当時の町並みの一部も復元されている。

◇朝倉氏と信長の関係年表(自作)を見せた。

◆朝倉氏関係年表
1533年  義景生まれる(一乗谷人口1万人を越える。家来は1万人以上)
1534年  信長、清洲織田家の小さな奉行のうちの一人の子として生まれる。
1560年  信長、桶狭間の戦いにおいて、今川義元をやぶる。
1563年  朝倉義景、明智光秀を召しかかえる
1567年  足利義昭が一乗谷に入る 義昭を立て上洛することを義景に求める。しかし、義景、義昭の求めに応じず。
1568年  足利義昭織田信長をたよって美濃へ行く。明智光秀が同行する。
1570年  織田信長との戦いを始める。
 4月 織田信長、朝倉を攻める。浅井長政が加勢し、信長敗走。
 6月 朝倉浅井軍、織田徳川連合軍に敗れる。(姉川の戦い)
 9月 朝倉浅井軍、織田方の近江堅田城を落とし、比叡山で織田と向き合う。
 12月 朝倉義景 織田信長と和ぼくする  
1573年8月 朝倉軍、近江で敗れる。一乗谷焼き払われる、朝倉氏滅亡。

子どもたちは、まず、明智光秀の名に驚いた。また、朝倉氏が二度にわたって織田軍を破っていることにも驚いた。

発問 . 1

朝倉義景に全国統一をするチャンスはありましたか。

かなりの論争になったが、半数以上の子が「チャンスがあった」と答えた。城下町には一万人が住み、光秀が仕えていて、義昭まで一乗谷に来ているのである。チャンスはあったはずである。

発問 . 2

それでは、なぜ全国統一を果たせなかったのですか。何が欠けていたのですか。

子どもたちの答えはほぼ一致していた。「大きな大名の子として生まれたため、信長のような強い気持ちがなかった。」というのである。

説明 . 1

義景が京都の文化をこよなく愛していたことは、よく知られている。事実、京都からかなりの数の文化人が一乗谷を訪れ、義景と親交を深めている。彼は、戦国時代の武将として生きることより、文化人として生きることを望んでいたようなのである。そこが、信長と決定的に違っていた点である。仮に、義景が平和な時代に生まれていたならきっと名君であったろうと思う。しかし、戦国時代という時代は、彼のような生き方を許さなかったのである。大きな野望を持つ信長の前に義景は破れ、彼の愛した一乗谷はことごとく破壊されてしまった。戦国時代というのは、こういう時代なのである。