蒙古軍をしりぞけることができた理由は何か
6年社会科。鎌倉時代。蒙古軍を退けることが出来た理由は何かを軍事的側面から考えさせる授業。原実践吉田高志
以下にサイトを掲載している。そのサイトを元に授業を行っていただきたい。
http://homepage2.nifty.com/TAKASI-YOSIDA/direct/mouko/moukoclass.htm
1時間目
◇教科書を使って蒙古襲来の概観をつかませておく。
蒙古軍を退けることができた理由を、教科書や資料集で調べてノートに書きなさい。
・暴風
・鎌倉武士の奮戦
◇サイトを開いて、蒙古軍を退けた理由として考えられるものとして次の5つを紹介する。
1 2度にわたって暴風が吹いた
2 蒙古軍は海を渡る戦いには不慣れだった
3 北条時宗を中心とする鎌倉武士の奮戦
4 蒙古軍を統率していた指揮官同士の対立
5 蒙古軍の主力は高麗や南宋などの征服された国々の兵士であり志気が低かった
もちろんこれらの理由が重なり合って蒙古軍を敗退させることができました。しかし、この中からあえて戦いの勝敗を決める最も大きな原因となった理由を1つ選ぶとするとそれはどれだと思いますか。
◇文永の役の蒙古軍の動きをサイトを使って説明する。
蒙古軍は、高麗の合浦を10月3日に出撃し、10月5日に対馬に上陸します。対馬では非常に残虐な行為を働いたことが記録に残されています。続いて10月14日には、壱岐上陸します。ここでもたくさんの村人を殺しています。そして、10月19日にまず一部が博多湾の今津長浜に上陸します。これは、陽動作戦だったと思われます。続いて10月20日に畑湾に主力が上陸しました。
蒙古軍のねらいは、どこの占領だと思いますか。
◇サイトに示してある地図をもとに博多か太宰府かを考えさせる。
当時の九州の政庁は、太宰府にあったことを説明し、太宰府の占領が目的だったことを話す。続いて、夜になって日本軍が水城に引き上げ、蒙古軍が博多湾にもどる様子をサイトを使って見せる。
蒙古軍におされ、日本軍は水城まで撤退します。水城とは、600年前に太宰府防衛のため作った城です。当時、日本軍は白村江の戦いにおいて唐、新羅の連合軍に敗退し、彼らの日本侵攻を食い止めるため天智天皇が建設したのです。一方蒙古軍は非常に不可解な行動をとります。蒙古軍は、海に引きあげてしまうのです。渡海作戦で最も危険なのは、上陸です。せっかく築いた陸上の陣地を捨てて、海に部隊を引き上げるということは通常では考えられないことです。
この蒙古軍の行動については、2つの説があります。いずれの説を支持しますか。
①この作戦は脅しが目的であり、その目的をとげたので撤退した。
②日本軍が意外に強く、予想外の被害が出たため撤退した。
◇①については、その後再びモンゴル帝国の使者がやってきていることが根拠となっていること、②については『元史』日本伝に「而官軍不整 又矢尽」という一節、つまり、軍が整わず持っていった矢も使い果たしてしまったという記録が残っていることが根拠になっていることを説明する。
2時間目
◇先に紹介したサイトを使って弘安の役の蒙古軍の動きを説明する。
弘安の役には、蒙古軍は2つの軍隊を送り込んできます。1つは、東路軍といって高麗から出発した軍です。もう1つは江南軍といって中国本土から出発した軍です。もともとは2つの軍が合流して日本に攻め込む計画でしたが、江南軍の大将が病気になってしまい、江南軍の到着は2ヶ月近く遅れることになります。では、先に出発した東路軍の動きを追ってみましょう。5月3日に高麗の合浦を出撃し、5月21日に対馬に上陸しています。続いて、5月22日には壱岐に上陸し日本軍の守備隊を全滅させています。とここまでは、同じなのですが前回の文永の役と違って蒙古軍は、6月6日に長門地方に別働隊を送り込んでいます。
長門地方に別働隊を送り込んだ目的は何ですか。
◇これは、九州と本土を分断するためだったと考えられる。子どもたちが気づかない場合は説明する。この別働隊は、時宗が配置していた日本軍に破れ全滅してしまう。実は長門地方にも石塁が作られていたのである。
博多に侵入した蒙古軍は、前回の文永の役の時にはなかったものを見ます。それは何ですか。
・石塁
博多湾からの上陸をあきらめた蒙古軍は志賀島からの上陸をはかります。しかし、激戦の末、日本軍に破れてしまいます。上陸をあきらめた蒙古軍は、壱岐にいったん引き上げます。日本軍はそこに小舟で急襲をしかけています。7月2日。東路軍は待ちに待った江南軍と合流をします。日本軍はここにも急襲をかけています。そして、7月30日。鷹島から博多湾へ移動中の蒙古軍を暴風が襲います。この暴風で蒙古軍は壊滅してしまいます。
次に、蒙古軍と日本軍の戦力について考えます。以下がそのデーターです。文永の役の蒙古軍は4万人といわれています。しかし、船の漕ぎ手や食糧を運ぶ人たちなどの非戦闘員が数多く含まれていて実際に戦える戦力は2万人だと考えられています。同じように弘安の役で実際に戦える戦力は東路軍2万5千、江南軍6万と計算されています。
【文永の役】
〈蒙古軍の兵員数〉
蒙古軍総兵力 40600人
梢工 水手 15000人
戦闘部隊兵力 25600人
兵站 5000人
交戦兵力 20000人
〈日本軍の兵員数〉
交戦兵力 5300騎
交戦兵力 10000人
【弘安の役】
〈蒙古軍の兵員数〉
東路軍総兵力 42000人
交戦兵力 25000人
江南軍総兵力 100000人
交戦兵力 60000人
〈日本軍の兵員数〉
長門地区交戦兵力 25000人
博多湾交戦兵力 40000人
京都地区交戦兵力 60000人
「元寇ー本土防衛戦史ー」(陸上自衛隊第四師団司令部 1963年)
攻撃する側と守る側では、どちらが数多くの兵を必要としますか。
・攻める側
攻める側と守る側の比率は通常どれぐらいで対等と考えられていますか。
・通常は「3:1」
文永の役も弘安の役も交戦兵力の数は蒙古軍が上回っています。しかし、攻める側と守る側の比率から考えると文永の役は「2万対1万」、弘安の役では「8万5千対4万」といずれも「3:1」を越えてはいません。数の上では、蒙古軍が圧倒的に有利とは言えないのです。
蒙古軍を退けることができた最も大きな原因となった理由を1つ選ぶとするとそれはどれだと思いますか。
1 2度にわたって暴風が吹いた
2 蒙古軍は海を渡る戦いには不慣れだった
3 北条時宗を中心とする鎌倉武士の奮戦
4 蒙古軍を統率していた指揮官同士の対立
5 蒙古軍の主力は高麗や南宋などの征服された国々の兵士であり志気が低かった
この後、感想を書かせて授業は終わりである。