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『赤とんぼ』覚え書き[7]何を授業し,何を授業しないか

向山型国語に挑戦27『赤とんぼ』(三木露風)の教材研究の一部です。

何を授業するか

私は,この詩の主題は何かを問う授業をすることにした。
弥吉菅一氏は,

「赤蜻蛉」即「露風自身」となり,母の語を一語も出さずに,露風の母を想う詩と解されることとなる。

と述べる。
 和田典子氏は,「負われていたのは姐やにである」ことが立証されたとしても

どうしてもこの作品が,母恋いの童謡であると読めてしまう。そして主題は,「姐やへの思慕」の外にあると考えている。

と述べる。
私自身は,三木露風について調べ始めるまで,『赤とんぼ』が母恋いの歌だなどと思ったことはなかった。三木露風が幼くして母と生き別れになったということを知らない人が,はたしてこの詩を読んで「母」を思い浮かべるのだろうか。
私は妻に『赤とんぼ』を“どこ模”してみた。
妻は教員ではなく,三木露風に関する知識もまったくない。赤とんぼに「追われて」いたのだと思い込んでいたクチである。また,私は妻に,三木露風の背景について何も話さず,「母」とか「お母さん」という言葉も一切発しなかった。
ところが,そんな妻が『赤とんぼ』の正しい語釈を知ると,こう言ったのだ。

「この歌,寂しい感じがする。作者は,ホントは寂しい子ども時代を送ってたんとちがう?本当はお母さんにおんぶしてもらいたいねんけど,お母さんがいない。だから姐やにおんぶしてもらった,みたいな。」

『赤とんぼ』から「母」を感じる人がいる!これは,私にとっては大きな驚きであった。
 『赤とんぼ』の主題は,「姐やへの思慕」か「母恋い」か。子どもたちはどう答えるのだろうか。

何を授業しないか

漢字と仮名の使い分けについては取り上げないことにした。
弥吉菅一氏や和田典子氏は,漢字と仮名の使い分けに着目し,そこに意味を見いだしている。
弥吉氏は

漢字は「過去」、仮名は「現在」という時間差表記の法則

があると言う。
 和田氏は

作品には、「赤蜻蛉」「あかとんぼ」「赤とんぼ」の三通りの書き方がある。漢字の「赤蜻蛉」の時点では、露風は、北海道の夕焼けの中で赤とんぼを見ている。(中略)そして三行目では、心が赤ちゃんの頃の情景に戻っていることを、平仮名書きの「あかとんぼ」が語っている。
 第四連の「赤とんぼ」は、小学校に上がっているので、漢字仮名まじりである。
 同様に、「夕焼、小焼の」においても、大人の露風の場合は漢字で、小学生の露風の場合は「夕やけ小やけの」と、漢字平仮名交じりで表現されている。
 同じ一語に対して、漢字と平仮名を書き分けることによって、時間の差を表現したり、感情の強弱を表現するという方法は、露風の作品の中ではよく見られることである。(中略)贅語を持たない露風の詩や童謡において、この書き分けの意味は、大きなウエイトを持つ。

と述べる。
しかし,現在残っている露風の直筆原稿では,漢字と平仮名の使い分けはおこなわれていない。
露風自身には,漢字と平仮名の使い分けについての「計算」はなかった(あるいはそれほど強くはなかった)と私は考える。
また,私は向国誌に載っているテキストを使って授業をするのだ。このテキストでは,漢字と平仮名の使い分けはおこなわれていない。だから,このことを授業に取り上げるべきではないと考えた。