ヒロシマ発平和教育
戦時中、広島県竹原市大久野島で毒ガス兵器の製造がされていました。今では国民休暇村として観光スポットになっていますが、この大久野島の戦争の傷跡を写真と解説で紹介します。(原実践:松島正弘氏 コンテンツ作成:坂本佳朗)

1 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

この写真の女の人の職業は何でしょう。
「学校の先生」です。
しかも小学校の先生です。
これは碑の名前からわかります。
この碑の名前は原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑といいます。
国民学校というのは,旧制の初等教育学校のことです。
初等科6年,高等科2年で,皇国民の基礎的練成を目的としました。
被爆死した先生は200人,子どもは2000人といわれています。
しかし,原子爆弾によって全滅させられたのですから,実際の数を知ることはできません。
女の人にだかれている子どもは,何年生ぐらいでしょう。
「小学校の一年生か2年生」の子どもです。
この当時,3年生以上の子どもは強制疎開によって親元から離されていました。
1年生・2年生の子どもたちは,親元から離すには小さすぎるということで、強制疎開の対象からはずされていました。
毎日学校に通っていて被爆させられたのです。
この碑の様子はいつのことをあらわしていますか。
「1945年8月6日」です。原子爆弾投下直後の様子です。
碑には正田篠枝さんのうた「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあまたの骨 あつまれり」が刻まれています。
女の人はどの方向を見ていますか。
「原子爆弾の投下された方向」を見ています。
1945年8月6日8時15分、1・2年生の子どもたちは,学校へ行く道の途中であったことでしょう。
あるいは,子どもたちは校庭に整列していたかもしれません。
そこで原子爆弾の熱と光によって焼き殺され,爆風によって吹き飛ばされたのです。
2 被爆アオギリ

この木の名前は「アオギリ」です。
倒れないように竹で支えてあります。
この写真のものは戦争と関係があります。
戦争とどんな関係があるのでしょう。
原子爆弾の投下によって,たくさんの人間が殺されてしまいました。
人間はもちろん多くの被害を受けたわけですが、被害を受けたのは人間だけではありません。
この写真の「アオギリ」のような植物も,動物たちも被害を受けたのです。
この「アオギリ」は,爆心地から1500m離れた所にありました。
原子爆弾の熱と爆風によって,木の幹がえぐられてしまったのです。
しかし,そのえぐられた所を包み込んで新しい幹が育っているのです。
1500m離れた所でこれだけの被害を受けているのですから、原子爆弾の恐ろしさというものが伝わってくることでしょう。
原子爆弾が投下された時,そのあまりのものすごさと放射能の影響から,広島の街には何十年も植物が生えてくることはないだろうといわれていました。
そんな時,この「アオギリ」のように植物が芽を出したのを見た広島の人達は大きな喜びを感じたことでしょう。
現在,この「アオギリ」は、広島平和記念公園の中にあります。
それはいつのことですか。
「1945年8月6日」8時15分のことです。
ちなみに,長崎の原子爆弾投下は1945年8月9日11時2分です。
私たちは決して忘れてはならない日です。
3 原爆の子の像

この像の上に立っている子どもが頭の上にささげているものは何でしょう。
「折り鶴」です。
佐々木貞子さんは鶴を千羽折ったら病気が治るということを信じて、薬の紙や広告の紙を使って鶴を折りました。
しかし、1955年10月25日千羽の鶴を完成させることができないままに亡くなってしまいました。
この像を立てるきっかけになった人物は誰でしょう。
「佐々木貞子さん」です。
1945年原子爆弾が広島に落とされた時に佐々木貞子さんは2歳でした。
爆心地から北へ2.5km離れた三篠町の家の中です。
その時に家は焼けてしまいましたが、不幸中の幸いにも怪我をしないですみました。
この人物はなぜなくなってしまったのでしょう。
「原子爆弾による白血病」です。
原子爆弾が落とされてからずっと元気だった佐々木貞子さんでしたが,6年生の三学期が始まって間もなく,原子爆弾による白血病ということで入院しました。
元気そうでいても原子爆弾の放射能によって体を壊されていたのです。
この像を建てるために活動した人はどんな人たちだったでしょう。
この像の碑文には次のようにあります。
「これはぼくらの叫びです/これは私たちの祈りです/世界に平和をきづくための」
この像を作る中心になったのは,佐々木貞子さんの事を聞いた「中学生たち」です。
広島の中学生の呼びかけが全国へ、世界へと広がっていったのです。
塔の中にノーベル平和賞をもらったある人の言葉が刻まれています。
その人物は誰でしょう。
塔の中にはノーベル物理学賞受賞の「湯川秀樹博士」による銅鐘がさがっています。
そして、そこには「地に空に平和」「千羽鶴」の言葉が刻まれています。
4 原爆ドーム

「原爆ドーム」といいます。
元の名前は「広島県産業奨励館」「広島県物産陳列館」ですが、原子爆弾の投下によって誰が言うともなく「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。
ヒロシマのシンボル,平和のシンボルになっています。
この建物があるのは,広島県広島市中区大手町1丁目10番地の広島平和記念公園にあります。
原子爆弾はこの広島市と、8月9日に長崎市に投下されました。
くずれてしまったのはいつのことですか。
「1945年8月6日」8時15分です。
どうしてこんなにくずれてしまったのですか。
「広島に投下された原子爆弾によってこうなってしまったのです。」
5 原爆慰霊碑

これは「原爆慰霊碑」といいます。
何の形に見えますか。
人によって色々な形に見えると思います。
「はにわ型」です。
「はにわ」というのは,大昔,貴人の墓の周囲に副葬品として埋めた円筒や,土製の人・動物などの像のことです。
馬の鞍の形に似ているようですし,家の屋根の形にも見えます。
どうしてこんな形になっていると思いますか。
「死んでしまった人の魂を,雨や露から守りたいという気持ち」からこういう形になったといわれています。
ということは、このはにわ型の中に原子爆弾で死んでいった人の魂に代わる何かがあるということがわかります。
慰霊碑の真ん中にある石棺には
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という文字が刻まれています。
この「過ち」とは何ですか。
「原子爆弾」と考える子どもがいるかもしれません。
しかし、そうなると,この碑文の主語はアメリカ合衆国の人ということになります。
原子爆弾を投下した人,または,その指示をした人ということになってしまいます。
この碑文の主語は,世界中に住むすべての人と考えるべきでしょう。
そうすると、この「過ち」というのは「戦争」ということになります。
この石棺の中には何が入っていますか。
「過去帳」が入っています。
過去張というのは,亡くなった人の名前を書いたもののことです。
しかし、亡くなったすべての人の名前を知ることはできません。
今も原子爆弾の後遺症で苦しんでいる方がいらっしゃるのです。
原爆慰霊碑の正式な名前は何といいますか。
「広島平和都市記念碑」といいます。
世界で初めて原子爆弾による被害を受けた広島だからこそ、その都市を中心にして世界の平和を築いていこうという意志の表れです。