椎茸の人工栽培に挑んだ男
椎茸の栽培は、手軽に簡単に、どこででもできるのが最大の特長である。その椎茸の人工栽培において、ある青年の多大な努力があったことはあまり知られていない。そのエピソードを授業化した。

椎茸の人工栽培に挑んだ男
食べたことのある「きのこ」の名前を発表します。
椎茸、松茸、しめじ、えのきだけ、舞茸、エリンギ、などが出ると思われる。
椎茸と松茸、どちらが価格が高いか知っていますか。
松茸の方が、圧倒的に高い。「では、昔はどうだったのでしょう」
1914年(大正3)1kgの価格
椎茸 1円30銭 松茸 15銭
松茸の価格が上昇したのは( )が減ったからです。
( )は何ですか。
答え 収穫量
「松茸が取れなくなったのはこんな理由が考えられます」
・松くい虫により松林が枯れる
・森を手入れしなくなった (地表がきれいでないと松茸は生育しない)
「また、松茸の「人工栽培」はいまだ成功していません」
椎茸の価格が下がったのは( )が増えたからです。
( )は何ですか。
答え 収穫量
「椎茸はあんまり好きではない」という人もいるかもしれませんが、日本の食事において、椎茸はなくてはならないものでした。椎茸を干してから使うと、とてもいい出汁が取れます。鰹節、煮干、そして動物(鶏がら・豚骨など)が使えない精進料理の世界では、干し椎茸の出汁はなくてはならないものでした」
収穫量が増えた理由は何でしょうか。
「人工栽培」ができるようになった。
「これが椎茸の生育サイクルです」
「椎茸は高く売れるから昔から人工栽培に 挑戦した人はたくさんいました」
いつごろから人工栽培は行われていたでしょうか。
A 江戸時代 B 明治時代 C 大正時代 D 昭和になって
「江戸時代に行われたのは、このような方法です」
丸太(ほだ材)に切込みを入れる→山林に並べておく→菌がつくのを待つ「運任せ」
「これを【ナタ目法(半栽培)】と言います」
この方法で農家は儲かったでしょうか。
収穫は不安定でした。
原木(一石)= 木炭2.5俵
= 椎茸1kg
椎茸が収穫できるのは「2年目以降」一年目は「0円」時には7kg以上取れるときもある。全然取れないときもある。
ある大学生の青年が、農村の生活を調べるために大分県の山村にやってきました。
農夫のこのような姿を見かけました。
なばよ出てくれ おまえが出んば
おらが村から 出ていかんばならんでな
いつ頃の話でしょう。
A 江戸時代 B 明治時代 C 大正時代 D 昭和になって
昭和7年のことです。
この青年の名は「森 喜作」彼はこのような決意をします。
「われ 農夫の祈りに 開眼す」
森は椎茸が確実に出来る方法の研究に没頭しました。大学を卒業した森は、故郷の桐生(群馬県)に戻り研究所を建て、安定したシイタケの栽培方法の研究を始めた。
それまで「胞子を人工的に採取し栽培する」方法が試されてはきたが、ことごとく失敗に終わっていた。
そこで、森は胞子ではなく、菌糸に着目した。
「菌糸を使えば、確実にシイタケが生えるんじゃないか?」
この森の発想は画期的なことでした。試験管の中で培養した菌糸を、オガクズに移し、穴を開けた丸太に植えてみました。
しかし、菌糸が根付かず失敗。原因もわからない。
試行錯誤を繰り返すうちに、親から譲り受けた財産はみるみる減っていきました。
「これ以上、雲をつかむようなシイタケ栽培に金を使うことは許さん。!」
一族の大反対もあり、ついに研究資金は底をつきました。
何不自由なく育ってきた森が、イモや梅を育て、なりふり構わず研究資金を作りました。
そんな森の生活は10年間続きました。
「何かいい方法はないだろうか。?」
とそんなある日、思わぬ物がヒントになりました。
それは何だったでしょう。
A 将棋の駒 B 囲碁の碁石 C チェスの駒
それは、『将棋の駒』でした。
将棋の駒のような小さな木片なら、使えるかも知れない。早速、森は木片を試してみた。これなら、木片自体がフタになり、丸太とピッタリと密着するので乾燥を防ぐことができました。
森はこの木片に菌糸を根付かせ、4ヶ月かけて繁殖させることに成功しました。
この方法は、簡単に持ち運べ、誰もが手軽に使えます。
この木片は、種駒と名付けられ、日本全国に広まり、シイタケの生産量は飛躍的に伸びました。
森の発明したこの人工栽培法は、60年以上経った今でも一切変わっていません。
のちに大分県日田のシイタケ農家達は、貧しさから開放された喜びに感謝し、日田の地に森の銅像を建てました。
外国で「椎茸」は何と呼ばれているでしょうか。
椎茸はは、海を越えてアメリカやフランスでも「shiitake」と呼ばれ愛されています。
最後に森の信念の言葉を紹介します。
人がやらないことをやり続ければ、見えなかったものが見えてくる。
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